現代ニート学事例1(1)ニート爆誕

父親はよく言えば放任主義、悪く言えば無関心、母親はよく言えば献身的、悪く言えば過干渉、世間知らず、そんな親の元で育ち、ニート製造の教本のような自分の人生の話。

両親の不仲からくる家庭不和で絶えずピリついた空気が充満した空間で育った。
怒鳴り声やすすり泣く声が耳に入ってくる中での生活はとても緊張を強いられていたと思う。

ハッキリと自覚はなかったが、心のどこかで「親の不仲は自分のせいなのか?」と思っていたのと同時に常に親の顔色を窺って日々を過ごしていた。これは後になって、「周囲の人の顔色を窺う」に無事アプデされることとなる。常に周囲の顔色を確認するために今でも首の可動域はフクロウぐらいあると思う。

所謂、「普通」とされるルート、小学校→中学校→高校→大学と進んでいったものの、家庭での緊張からくる鬱屈した部分が出ていたのか、どの年代も溶け込みきれていたかと言われるとそうでなかったように思う。

友達が全くいなかったわけではなく、それぞれの年代で世に言うカーストとやらのトップのグループには属していたが、みんなといる楽しみを共有しきれずにどこか斜に構えて輪に加わっていた。傍から見ていると「馬鹿みたいにはしゃいでアホくさ」と一緒にいる友達すらどこか馬鹿にしているスカしたやつのように映っていたと思う。我ながら嫌なやつである。

常に親の顔色を窺い、場を取り繕うことに心血を注いできた影響からか「子どものように興味に率直であるより、大人っぽくいる自分がかっこいい」と当時の自分は思っていた。これは後に「あのときの自分は本当はこうしたかったんだな、その瞬間の楽しさや経験を能動的に享受しようとしていた周りの友達が羨ましかったんだ」と気づく。

そうした思春期・青年期を過ごしていき、時は流れ大学生活も佳境の3回生、4回生。全くと言っていいほど馴染めていなかった大学だが、一人で講義を受けていようがぼっち飯を食っていようが授業だけは出席して単位だけはとれていた。そして始まる社会人として爆誕するための通過儀礼、就職活動。

サークルだのバイトだの飲み会だのでろくに講義にも出席せずに単位も足りていない同級生達が面接でアクロバット自己PRを披露し、とてつもない「取り繕い力」を見せつけてバンバン内定を取っていくのを目の当たりにしていく中、単位は取れて就活の時間もたっぷり取れていた自分は説明会や一次面接を受けていく中で一つ大きなことに気が付いた。

「自分には紹介できる自己が何もない。」

そう、自分には他人に伝えられる確固たる「自分」や「自分とはこういう人間だ」と発信できるものが何もなかったのだ。

この事実に気づいてからというもの、働いている自分、内定をもらう自分、就活を続ける自分を全く想像することが出来なくなる。

最初は「大学4年間での過ごし方の差が出たのか?」などと呑気に考えていたが、よくよく考えてみるとそんな感じでもないことに気づき、そこで初めて「自分が何者であるか」という要素や「自我」は過去の経験や何を感じてどんな気持ちを抱えて、時にそれを表出させて生きてこられたかに影響されるということをハッキリと自覚することとなった。

そんなこんなで遊びほうけていた同級生が内定をとりまくっている、自分はというと自分が何者なのかを語ることさえ全くできずに、ただ面接の場で金魚のように口をパクパクすることしかできなかった事実を受け止めきれずに膝から崩れ落ち、ここで自分の就活生活は終わりを告げることとなる。

そんな自分の負け確イベントのことなど露知らず、ゼミの教授からは「この先の進路はどうするんだ?」とことあるごとに聞かれ、話し合いの場を何度も持たれたが、「何者でもない自分」というとてつもない質量を持った事実に圧し潰されていた自分には最早話せることは何もなく、「公務員を目指します」や「専門に入りなおして資格を取ります」などと適当なことをのたまってその場をやり過ごす日々が続いていた。

しかし相手は「教授」という肩書と権力を持ったタイトルホルダー。そう簡単には屈しない。自分のゼミの内定率を落とすまいとあの手この手でこちらを蟹工船に乗せようとしてきたが、就活を始めるにあたって3年続けたバイトも辞め、就活の場で自分が「持たざる者」であることを知って、この時既にニートとして覚醒しつつあったこちらの堅牢な外殻を突破しきることはできず、程なくしてこちらの勝利という形で土を舐めることとなる。大人とはつくづく外聞を気にする生き物であることを知った。

単位は足りていたので、残すはゼミと卒論であったがモチベーションなどまるでなく、小学生が夏休み終了1日前に書き上げた宿題のような卒論でかろうじて単位をもらい「ただ大学に4年間通っただけの人間」として特に思い出もない通いなれたキャンパスを後にすることになる。

春休みも終わり年度が変わって4月になり、同級生たちが新しく爆誕したソルジャーとして社会という戦場の最前線にドナドナされていく中、自分はというと新卒切符や将来への担保を全て投げ捨てた既卒大学生となった。

世に数十万人いるとされる「ニート」がこの世にまた一人爆誕した瞬間でもあり、22年前に裸で生まれ落ちて産声をあげて以来の二度目の産声である。ニート0歳児、一年目の春であった。

【死にたいを知る】書評:高橋和巳『新しく生きる』

紹介する本:高橋和巳『新しく生きる』三五館、2001年

1.はじめに

私は10代から20代にかけて自殺未遂を繰り返していました。今はカウンセリング治療のお陰でかなり落ち着いていますが、希死念慮に苛まれる苦しみや、そのなかで気持ちを立て直すことがどれほど難しいかを、いやというほど味わってきました。

以下に紹介するのは、私が精神の危機を迎えていたときに繰り返し読み、心の支えにしてきた本です。著者は愛着障害やカウンセリングの技法に精通する精神科医、高橋和巳氏です。高橋氏は多くの本を出版していますが、『新しく生きる』は「自殺」というテーマに深く踏み込んだ、隠れた名著です。

私は本書を読むことで、「死にたい」と思うほど強い葛藤が作られる仕組みと、この葛藤を解きほぐしうる確かな方法を学びました。それらは希死念慮の対処にとどまらず、人間の心の不思議さ、奥深さに触れていると思います。精神的苦痛の悪循環に閉じ込められ、自分を制御できない無力感と、世界から断ち切られたかのような孤立感に打ちひしがれているとき、この苦しみにも普遍的な意味があると思えたことは大きな慰めになりました。

2.本書の概要

「枠」と「自己受容」

人の心の苦しみや悩みは、自分を嫌ったり、責めたりすることから始まって、「死にたい」と思う気持ちのなかで一つのピークを迎えます。そのような葛藤は、なぜ私たちの心に生まれてくるのか。そしてこの苦しみは、どうすれば和らいでゆくのか。高橋氏はこの切実な問いを、心のこもった、平明な言葉で解き明かしてゆきます。

本書のキーワードは「枠」と「自己受容」です。他者との信頼関係や社会との繋がりを維持するために、つまり生きてゆくために、私たちが半ば無意識に人生のなかで作り上げてきたものが「枠」と呼ばれます。それは「〇〇すべき」、「〇〇しなければならない」のような、多くの義務を課してきます。

枠は私たちが安定した生活を営むために必要なものですが、同時に私たちの感性や思考を型にはめ込んでしまいます。枠が強すぎると、私たちは自分が感じていること、思っていることを、ありのままに認められない。また、頑張っても枠を守れないときには、自分を嫌いになったり、責めたりしてしまう。逆にこの枠の外側に出て、感じていることをありのままに感じることができれば、自分を制約している枠の存在を知り、その拘束から自由になることもできるようになります。このプロセスが、「自己受容」と呼ばれるものです。

本書を通じて、人が自己自身を受け止めることで悩みを乗り越え、人生を変えてゆく過程が描かれています(「枠」をはずす→「枠」を知る→「枠」から自由になる→「枠」の外へ踏み出す)。

「死にたい」を知って変わる

本書の特徴は、私たちが生きるために作り上げた「枠」が、死を希う気持ちを生み出してゆくという逆説的なプロセスを、ひたすら丁寧に、分かりやすく辿っている点にあると思います。

希死念慮は単なる「治療されるべき、不健全な、誤った思い」ではありません。「死にたい」という気持ちは、誰にでも生じうる、自然な心の動きです。むしろ、生きる意欲によって支えられ、作りだされているとさえ言えます。この不思議な状況を、高橋氏は次のように言い表しています。「こうして私たちは感情を正直に追ってゆくと、『死にたい』と思うのは、『生きなければならない』と決めているときだけである、という逆説に気づくであろう。」

「死にたい」という気持ちすら受け容れてゆく自己受容の力は、私たちの生き方を変える可能性を秘めています。自分の枠を知り、枠を作ってきた自分も、枠からはみ出てしまう自分も受け容れることによって、一度は嫌ってしまった自分を、もう一度好きになることができます。

それは、単に元の自分にもどるという意味ではありません。自分の枠が見えることによって、ほかの人の枠も、枠からはみ出してしまう姿も見えるようになり、他人のことを愛しいと思う気持ちさえ湧いてきます。

このように世界の見方が深められると、同じものを見ていても、今までは見えなかった陰影や光彩が目に入るようになります。枠の外と内を行き来するありのままの自分を認めることによって、ものの見方が変わる可能性があるのです。今のままの、ありのままの自分を受け容れるからこそ、「新しく生きる」ことができる。ここに、人の心をめぐるもう一つの逆説があります。

3.補足

本書は絶版のため、現在は中古でしか入手できません。再版を強く希望しますが、入手しやすくて読みやすい、ほかの本も紹介しておきます。

・代表作と言える『人は変われる』(ちくま文庫、2014年[三五館、2001年])では高橋氏の中心的なテーマが論じられており

・その最先端の考察は、新刊の『親は選べないが人生は選べる』(ちくま新書、2022年)で読むことができます。

・愛着障害については『消えたい』(ちくま文庫、2017年[筑摩書房、2014年])、『「母と子」という病』(ちくま新書、2016年)などがあります。

・カウンセリング技法については『精神科医が教える聴く技術』(ちくま新書、2019年)があり、心理療法の専門家だけでなく、心理療法を利用する当事者やご家族にも参考になると思われます。

【初めての方へ】生きづLABOと研究員ブログについて

この記事では、初めてこのブログを訪れる方のために、生きづLABOって何?研究員ブログはサイトと何が違うの?という説明をします。

(説明を読まなくても、このブログは問題なく楽しめると思いますが、知っておいてもらえると嬉しいです)

生きづLABO紹介

まず、生きづLABOがどんなものか簡単に説明しますね。

生きづLABOは、生きづらさを抱えている人と、生きづらい社会をなんとかしたいと思っている人のための、お役立ち・学び・社会参加サイトです。

もう少し詳しく、分かりやすく言うと、

●ユーザーは、生きづらい当事者&社会に問題意識をもっている支援者をメインに想定

●生きづらさを少しでも楽にするためのヒントや、当事者にも支援者にも役に立つ情報提供がある

●生きづらい自分や、生きづらい社会について理解を深める要素がたくさん

●読むだけじゃなくて、参加できるコンテンツもある

という感じになります。

まだサイトを見たことないよ!って人は、、生きづLABOを押すとサイトに飛べるので、ぜひ見てくださると嬉しいです。

研究員と研究員ブログについて

サイトのコンテンツは、生きづLABOの運営が全て作成していますが、研究員ブログは、ユーザーさん(の中で研究員登録している方)が記事を作成しています。

そして、研究員はどんなものかというと・・・どんなものでしょうね(笑)この記事を書いている2024年2月19日現在では、まだ研究員の仕組みがきちんと出来ていないので、なんとも説明しづらいです。

▼どんな人が研究員になれるの?
→生きづらさを抱えている人でも、生きづらい社会をなんとかしたいと思っている人でも、周りに生きづらさを抱えている人がいる人でも、生きづらさについて研究してみたい!という人は誰でもなれます。

▼研究員に登録する方法は?
→現在まだ試行段階のため、一般からの登録は行えていません。簡単な登録情報をフォームで送るだけでOK、くらいの気楽な感じにはしたいと思っています。

▼どんな活動をするの?
→研究員限定で参加できる勉強会や交流会を開催する予定です。チャットルーム、ZOOMなどオンラインがメインになりますが、ゆくゆくはリアルもやりたいです。また、このブログに記事を投稿できるのは、研究員だけになります。

これから少し形が変わったり、なかなかすぐに実現できないことも出てきてしまうとは思うのですが、そんなイメージをしています…!


ではでは、あとはこのブログをお楽しみください。